抜けたストーリー

救われたい→救われる方法を聞く→実行する→救われるそのまま救うと誓われている阿弥陀様の出る幕がありません。

呼び声

そのまま来なさい、直ちに来なさい、と言われれば ○○してから、△△でなければ、□□しないと、などの○△□は要らないということです。素直に聞くべきです。

浄土真宗であるならば

まず本願を信じ念仏となえる身になること、 そして、それぞれの人生を全うするのだと思います。

大震災

大きな被害をもたらした大震災。 テレビでこの状況を目の当たりにし、自然の破壊力にただただ驚くばかりです。 被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。私も今の自分にできることをしていこうと思います。 なむあみだぶつ ( kosizu)

人生観

「日常生活を念仏の縁として生きる」ある本に書かれているのが心にとまりました。 こういう人生を送りたい。

あるがまま

この身そのまま、何も飾る必要もなく、ありのままのすがたで阿弥陀さまは救ってくださいます。病気を患って苦しんでいる人も、元気な人も、差別なく救ってくださいます。有り難いことです。(kosizu)

お慈悲

阿弥陀さまは、人の痛みを自らの痛みと感じ、人の苦しみや悲しみも我がことのように感じ、一緒に苦しんだり悲しんだりして下さっていると教えて頂きます。 阿弥陀さまの慈悲の深さが知らされます。(kosizu)

如来の願い

阿弥陀さまは、「お願いだから本願を信じ念仏して、浄土へ生まれてきておくれ」と絶えず呼び続けておられます。なむあみだぶつ。(kosizu)

聞法

浄土真宗は、阿弥陀如来の願いをひたすら聞かせていただき、如来の願いに導かれようと心がける宗旨であるということを、まず最初に確認させていただきましょう。〜本願のこころ(梯 實圓著)より 今年も、阿弥陀如来の選択本願の御教えを学んでいきたいです。…

新年

年が明けても、かわらず阿弥陀様のお慈悲は届いています。 広大な宇宙から見ればちっぽけな存在でしかない私ですが、そんな私にいつも心をかけて下さっている阿弥陀さまに感謝せずにはおれません。なむあみだぶつ。(kosizu)

年が明けても

なぜこんな自分が救われたのかと不思議に思いますが、阿弥陀仏からは必然のことなのだと聞かせて頂きます。 この身このままで感謝です。

御恩

最近、何故だかいろんな人と話す機会が増え、その中で時々自己中心的な考えをしている自分に気づかされます。阿弥陀様が、いつも私の心によりそい護ってくださっている御恩を思うと、私も、自分ばかりではなく相手の心を考え行動できる人になりたいです。(ko…

庄松同行

「お浄土をもってござる仏さまの、必ずたすけるといわれるおおせにしたがうよりほかに手はないではないか」 〜〜〜 信心とは、自分の信仰体験を信ずるのでもなければ、人の言葉を信ずることでもありません。わがいのちの行方について、何一つ思い定める力を…

なにもない

阿弥陀仏のそのまま助けるのおおせを疑いなく受け容れたのであって、自分の中に何かがあったのではありません。私に、助かるようなものがらは何もないです。

触光柔軟

信をえたらば、同行にあらく物も申すまじきなり、心和らぐべきなり。触光柔軟の願(第三十三願)あり。また信なければ、我(が)になりて詞(ことば)もあらく、諍ひもかならず出でくるものなり。あさましあさまし、よくよくこころうべしと云々。(御一代記聞書) で…

思案の頂上

思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと云々。(御一代記聞書) 阿弥陀さまが五劫という長い間思惟をめぐらして立ててくださった誓願に勝…

信心の沙汰

罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なりと、くれぐれ仰せら…

出会い

毎日報道される事故や事件を見たり聞いたりする度に、この世に生れて、阿弥陀様の救いについて教えて下される方々と出会うことができて、本当によかったなあと思います。 これからもいろんな人との出会いがあると思うけど、その時その時の出会いを大切にして…

草むしり

家の裏の雑草を根っこから引き抜いたつもりでも、またあちこちに生えてきます。特に畑は土に栄養があるため厄介です。ただ今助けるという本願に向くと、それまで無かった疑い計らいが次から次へとあらわれました。 何とか計らわないようにするのではなく、計…

誕生日

今日は私の誕生日。 すっかり忘れていたのに、今朝母親から「お誕生日おめでとう」の電話がかかってきました。本当はこちらから「産んで育ててくれてありがとう」とお礼の電話をするべきなのに・・・。親には何歳になっても甘えっぱなしで申し訳ないです。 …

弥陀をたのむ

弥陀をたのむとは、向きをかえるなり。「華山に向いて花を看、明月に向いて明月を観る」というごとく、機(自分)の方にむかわずして、必ずたすけてやろうとある大悲にむかう一念が、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」こころなり。(一蓮院秀存)阿弥陀さまの…

宝の山

しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて…

楽すぎて

私のままが南無阿弥陀仏。煩悩のままが南無阿弥陀仏。そのまま極楽参りとは勿体無い。

報謝の念仏

阿弥陀様にまかせてばかりでいいのかい、と思われた時は念仏称えています。

如来の救い

如来の救いとは、罪を許して帳消しにすることではありません。私たちに、自分の過ちを過ちと認めることのできる正しい智慧を与え、その罪の報いを引き受けることのできる勇気と力を与え、自分のことしか考えられなかった自己中心的な私たちの考え方を転換し…

念仏のはたらき

南無阿弥陀仏と称えることは、人間の欲望を満たすための祈りではありません。むしろ人間の我欲の醜さを知らせ、人を呪い、怨む心の浅ましさを気づかせて、我欲、私情のために、人間だけではなく如来までも利用しようとしていることの愚かしさに気づかせるの…

さわりなき救い

物心ついた頃から、みんなどうにもならない心を抱えて生きているんだなと感じていました。私もなんとなく不安を抱えて生きていました。 そんな私のために、すでに阿弥陀さまはすべての人をさわりなく救う南無阿弥陀仏を完成されていました。浄土真宗の教えに…

私の心 

南無阿弥陀仏のはたらきはいつも変わらないのに、私の心はいつも変わり通し。 私の心はあてにならないものだと知らされます。(kosizu)

法と私

頂いた南無阿弥陀仏の功徳は限りがありませんが、頂いた私の出来はピクリとも変わりません。 法は仰ぐものだと知らされます。

平生業成 

平生業成とは、いつでも今、救われる法が完成しているということをあらわします。 南無阿弥陀仏に勝る法なしです。(kosizu)