2010-03-01から1ヶ月間の記事一覧

念仏のとなえ心

以前は、助かりたい救われたいの心がくっついて離れませんでした。 今は、それがさっぱり出てこようがありません。

称名念仏

必ず救う、の阿弥陀仏のお喚びであり、必ず助かる、と聞いてよろこぶ信心であります。

光明 

阿弥陀仏の光明に照らし出されると、私には煩悩しかないことが知らされます。 そのまま救うと誓われた本願でなければ、救われようがありませんでした。(kosizu)

味わい

あれほどこびりついてどうにもならんとあきれた自力の迷情が、さっぱり抜き取られているというか破られているというか・・・。そのままが念々に相続しているのです。 何とも身が軽くてありがたい。

願うべきは

ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏申すべきなり。(御文章3帖目第4通) 浄土真宗の家に生まれ、あいがたき仏法にあい、弥陀如来の本願にあいました。 遠く宿縁をよろこばずにおれません。(kosizu)

阿弥陀仏のなされること

一人いてよろこべる法ですが、二人三人四人・・・とよろこべるとは、以前は想像もつかないことでした。 しかし、阿弥陀仏の本願力にたてば何の不思議もありません。全く阿弥陀仏のなされることだからです。 そう簡単に救われるはずがない、と思う心こそ阿弥陀仏…

よろこび 

うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな。(御文章1帖目第1通) 法を仰ぐと不思議と阿弥陀仏のご恩が知らされ、ただただうれしいのです。(kosizu)

法とは 

南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(御文章1帖目第15通) ただ南無阿弥陀仏でした。(kosizu)

しあわせ

頂いている南無阿弥陀仏は、私の求める幸せの延長上にあるようなものではありませんでした。もとより凡夫の智恵ではかれるような功徳ではなかったのです。 不可思議の信楽です。