助ける南無阿弥陀仏に間違いないから間違いなく助かるのだと聞かせて頂きました。 南無阿弥陀仏
阿弥陀仏の光明のはたらきは、月の光のようにやわらかくてやさしい感じがします。(kosizu)
そのまま助けるという本願なので、私は何も変わりません。 ただ往生一定と変わります。阿弥陀様のなされることです。
全くまるもらいの信心、囲み寄せる手間もさらさらなく、ほったらかし状態。
私が、となると何のたよりもあても見当たりません。 阿弥陀様が、となると何ともあたたかい感じがするのです。 本願力回向の信心は不思議です。
こんな者が救われることあるんだろうか、と思っていました。それが こんな者が救われるとはねえ、となっています。 こんな者のまま救うという本願でした。遠く宿縁をよろこぶ以外ありません。
新入社員の歓迎会がありました。人手不足もあって文字通り(?)歓迎されていました。 こちらは往生まる投げしておきながら、ようこそ救われてくれたと歓迎くださる阿弥陀様のお慈悲に頭が下がります。
仏のこころは 不思議なものよ めにはめえねど 話ができる 仏と話をするときは 称名念仏 これがはなしよ (浅原才市さん) 念仏を称えると、不思議と阿弥陀さまの慈悲の心が知らされ、心温まります。(kosizu)
聞いてみなんせ まことの道を 無理なおしえじゃないわいな きのう聞くのも 今日またきくも ぜひに来いとの およびごえ (おかる同行)阿弥陀仏にただお任せするばかりです。(kosizu)
以前、阿弥陀仏に向かったつもりが実は向かっていないことがありました。 ちょうど先生は私の後ろに立って、向きを阿弥陀仏に向けて下さる感じでした。 阿弥陀仏と私の間に立つのでなく、後ろです。
仕事は忙しさを増すばかり。 念仏は行じ易いのでありがたい。
もとより煩悩ばかりですが、自力がなくなると、まさに煩悩ばかりというかストレートに映しだされている感じです。 救われているのに煩悩ばかり、申し訳のない奴です。
以前は、助かりたい救われたいの心がくっついて離れませんでした。 今は、それがさっぱり出てこようがありません。
必ず救う、の阿弥陀仏のお喚びであり、必ず助かる、と聞いてよろこぶ信心であります。
阿弥陀仏の光明に照らし出されると、私には煩悩しかないことが知らされます。 そのまま救うと誓われた本願でなければ、救われようがありませんでした。(kosizu)
あれほどこびりついてどうにもならんとあきれた自力の迷情が、さっぱり抜き取られているというか破られているというか・・・。そのままが念々に相続しているのです。 何とも身が軽くてありがたい。
ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏申すべきなり。(御文章3帖目第4通) 浄土真宗の家に生まれ、あいがたき仏法にあい、弥陀如来の本願にあいました。 遠く宿縁をよろこばずにおれません。(kosizu)
一人いてよろこべる法ですが、二人三人四人・・・とよろこべるとは、以前は想像もつかないことでした。 しかし、阿弥陀仏の本願力にたてば何の不思議もありません。全く阿弥陀仏のなされることだからです。 そう簡単に救われるはずがない、と思う心こそ阿弥陀仏…
うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな。(御文章1帖目第1通) 法を仰ぐと不思議と阿弥陀仏のご恩が知らされ、ただただうれしいのです。(kosizu)
南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(御文章1帖目第15通) ただ南無阿弥陀仏でした。(kosizu)
頂いている南無阿弥陀仏は、私の求める幸せの延長上にあるようなものではありませんでした。もとより凡夫の智恵ではかれるような功徳ではなかったのです。 不可思議の信楽です。
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。(尊号真像銘文)阿弥陀仏の本願まこととなったのが、信楽ということだったのですね。(kosizu)
こしづです。このブログに時々お邪魔します。今日は子供に誘われて、久しぶりにドッジボ-ルをしました。知らず知らずの内に、子供が喜ぶボ-ルを投げることに専念していました。阿弥陀仏は、十劫の昔からただ私を助けたい一心で、私に南無阿弥陀仏を与えて下…
前回のエントリーで書いた信心です。
自力で自力を捨てることはできません。願力によって捨たったのです。
一味の人とは、教学や表現力や性格はまちまちでも、要のところが不思議としっくりするのです。ましてや身内となればなおさらです。
仏恩の深きことを感ずるほどに、阿弥陀仏の救いのみを勧めて下された先生方の恩を感じるのです。
わが妻子ほど不便なることなし。それを勧化せぬはあさましきことなり。(御一代記聞書六五) 真っ先に妻子、父母兄弟、共に往生一定の身に。阿弥陀仏の救いはただ今の救いですが、無常もただ今待ったなし、急がねばなりません。
阿弥陀仏のあたたかい心を下されているから、阿弥陀仏のあたたかい心を人に伝えたくなります。
先日の日曜日は、仕事の研修行事に参加しました。これを修了すると、ある特定の機器を1年延長して扱うことができます。1年に1度の継続研修です。 ひとたび阿弥陀仏に救われると、おかまいなしに往生が定まってしまいます。何とも有り難いことであります。