少しずつ

如来から与えられる救いのはたらきは、本願を受け容れる信心が開けたとき、即座に私の上に届き完成します。 〜〜〜 しかし届いたみ教えが私を育て導き、私どもの日常生活を正していかれるには時間がかかります。いいかえれば如来のみ教えが私どもの生活の上…

もったいない

阿弥陀様の「そのまま救う」という仰せを軽く聞き流すのではなく、そのまま受け入れることが救われるということです。阿弥陀様の仰せを聞きながら聞き流すのはもったいないことです。(kosizu)

これまでもこれからも

今年も はやお盆も終わり、振り返ればいろいろなことがありました。 いずれのことも念仏のご縁としていきたいです。

違わないけど違う

毎日ああだこうだと生きることに苦楽するのは以前も今も変わりませんが、深いところで後生の問題が解決されているという安堵感に包まれています。 本当の意味で腹の据わった生き方というのは他力信心から生まれてくるのだと思います。

いつでも

阿弥陀様が必ず助けるといわれているから必ず助かっていく。 おまかせする身軽さに南無阿弥陀仏。

かわらない

阿弥陀さまの願いが変わらないから、届いている南無阿弥陀仏も変わらないままです。 阿弥陀さまが、「そのまま救う。」と誓われているから、そのまま救われます。(kosizu)

過ぎた正義

どんな間違いをおかしても、必ずやりなおすことができる。 私はそんな人の力を信じてる。〜ストロベリーナイトより色々考えさせられるドラマです。(kosizu)

優しい歌詞

誰かが救いの手を 君に差し出している だけど 今はそれに気付けずにいるんだろう (ミスチル 「優しい歌」より)出だしのこの歌詞、いいですね。

仏から私

念仏は、たくさん称えてその見返りとして救いが与えられる、というものではありません。念仏を称えるということは、必ず救うという仏さまの願い(本願)を受け容れている姿であり、仏さまの救いのはたらきに包まれているということを意味するのです。 親鸞聖人…

往生は投げた

こうも聞こえにゃ 聞かぬがましよ 聞かにゃおちるし 聞きゃ苦労 今の苦労は 先での楽と 気やすめいえど 気はすまぬ すまぬこゝろを すましにかゝりや 雑修自力とすてられゝ すてゝ出かくりゃ なほ気がすまぬ 思えば有念 思わにゃ無念 どこにお慈悲があるのや…

謹賀新年

今年も、お念仏を称えて生きていこうと思います。なむあみだぶつ(kosizu)

よび声

浄土真宗では、自力諸善の功徳よりはるかに勝れているのが、本願によって成就された南無阿弥陀仏の名号であり、この南無阿弥陀仏が私の心に届いたのが信心で、口にあらわれたのが念仏であると教えて頂きます。 念仏は自分で称えているようでも、阿弥陀さまか…

忘れがち

ふと念仏に生かされていることがありがたく思われます。ご恩を忘れてばかりで情けない。

おかしな話

将棋では、確実に負けることが分かった時点で負けました(投了)となります。 素人将棋では最後の1手の詰みまでいって投了となることも多いです。 けれども自分の玉が詰んでいるにも関わらず、次の1手を考えるとすればおかしな話です。

そのまま

そのまま助ける、だからそのまま助かる。その通りですが不思議なことです。

賜る信心

信心をもらうとか、得ようとかいうところに、一つのとらわれがあるのです。もらうとか、得ようとか、つかもうとすると、逆につかめなくなるのです。こういうのは、不思議なもので、そのつかもうとする手がなくなって、あるいはつかみようのないのだと気がつ…

最近思うこと

一日でも、わずかな時間でも急いで、阿弥陀さまの「必ずたすける」という仰せを疑いなく受け入れ、極楽への往生を定めて、世の習いに従って過ごしていくことが大事であるなと感じるこの頃です。(kosizu)

雲泥の差

勝ちとって守る苦労と 負かされて護られる楽

さびない

残業続きも疲れますが、休み過ぎても体が重い感じで困ってしまいます。 だいたいのことはほどほどがよいのかもしれません。 いずれにしても念仏おおく称えられる日々を送っていきたいものです。

分かる

あれこれはからって他力信心が分かるのではありません。 勉強したら分かるというような普通の理屈とは合わないものです。 そこのところをよくよく聞かせて頂くのが大切なのだと思われます。

早いに越したことはない

今助けると呼んでおられる阿弥陀仏ですから、そのまま救われます。 本願力回向の信心に、私のはからいが入り込む余地は始めからありません。 真剣に聞けば救われるというのであれば50年聞いても覚束ないように思えるのです。

人生

生老病死は避けては通れませんが、寿命が尽きれば往生浄土、ありがたく思えてくるのです。

うその上塗り

うそを通そうとしてまたうそをつき、だんだん収拾がつかなくなる。普通であれば胸の内はかなりしんどいはず。 正直に生きるのが楽の元かも知れないと思えることがありました。

一念覚知について

信心のはじまりの時である「信一念」について、本当に信心をいただいたのなら、その時がいつであるのかはっきり分かるはずだ(一念覚知)という主張があるが、如来の救いの可否は信心をいただいているか否かによって決まるのであって、決してその時を覚えてい…

往生について

第十八願の往生は、他力の信心が開けおこった時、浄土往生が決定するのであって、臨終にはじめて往生の可否が決まるという第十九願・第二十願の往生とは本質的に相違する。〜安心論題綱要より 十八願と十九願・二十願の違いか述べられていて、大事なところだ…

たのむ、たすけたまへ

蓮如上人の『御文章』に頻出する「たのむ」「たすけたまへ」という表現は、どうぞおたすけくださいとお願いお祈りする、という意味ではなく、「必ず救うから私にまかせなさい」という阿弥陀如来の喚びかけを、「おまかせいたします(たのむ)、お心のままにお…

なむあみだぶつ

生きていると、想定外の出来事にあうことが度々あります。そのたびに喜んだり落ち込んだり、悩んだり反省したりで、煩悩具足のわが身が知らされます。 それでも前を向いて生きていけるのは、阿弥陀さまに護って頂いているからだなと思います。ありがたいです…

行くのか待つのか

早く来てよ、と呼ばれたら行くでしょう。 早く来てよ、と呼んで待つのではありません。

いただくのと こしらえるのと

お祝いのケーキを家族皆でおいしいおいしいといただきました。他力の信心もいただいてこそ味がわかってくるもの。 信心はこしらえるものではありませんし、それは一味でないから共に喜ぶこともできません。 ましてや信心いただくためにこしらえるのでもあり…

往生極楽の道

「我にまかせよ 必ず助ける」と聞けば、まかせきるより他はありません。