2010-01-01から1年間の記事一覧

御恩

最近、何故だかいろんな人と話す機会が増え、その中で時々自己中心的な考えをしている自分に気づかされます。阿弥陀様が、いつも私の心によりそい護ってくださっている御恩を思うと、私も、自分ばかりではなく相手の心を考え行動できる人になりたいです。(ko…

庄松同行

「お浄土をもってござる仏さまの、必ずたすけるといわれるおおせにしたがうよりほかに手はないではないか」 〜〜〜 信心とは、自分の信仰体験を信ずるのでもなければ、人の言葉を信ずることでもありません。わがいのちの行方について、何一つ思い定める力を…

なにもない

阿弥陀仏のそのまま助けるのおおせを疑いなく受け容れたのであって、自分の中に何かがあったのではありません。私に、助かるようなものがらは何もないです。

触光柔軟

信をえたらば、同行にあらく物も申すまじきなり、心和らぐべきなり。触光柔軟の願(第三十三願)あり。また信なければ、我(が)になりて詞(ことば)もあらく、諍ひもかならず出でくるものなり。あさましあさまし、よくよくこころうべしと云々。(御一代記聞書) で…

思案の頂上

思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと云々。(御一代記聞書) 阿弥陀さまが五劫という長い間思惟をめぐらして立ててくださった誓願に勝…

信心の沙汰

罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なりと、くれぐれ仰せら…

出会い

毎日報道される事故や事件を見たり聞いたりする度に、この世に生れて、阿弥陀様の救いについて教えて下される方々と出会うことができて、本当によかったなあと思います。 これからもいろんな人との出会いがあると思うけど、その時その時の出会いを大切にして…

草むしり

家の裏の雑草を根っこから引き抜いたつもりでも、またあちこちに生えてきます。特に畑は土に栄養があるため厄介です。ただ今助けるという本願に向くと、それまで無かった疑い計らいが次から次へとあらわれました。 何とか計らわないようにするのではなく、計…

誕生日

今日は私の誕生日。 すっかり忘れていたのに、今朝母親から「お誕生日おめでとう」の電話がかかってきました。本当はこちらから「産んで育ててくれてありがとう」とお礼の電話をするべきなのに・・・。親には何歳になっても甘えっぱなしで申し訳ないです。 …

弥陀をたのむ

弥陀をたのむとは、向きをかえるなり。「華山に向いて花を看、明月に向いて明月を観る」というごとく、機(自分)の方にむかわずして、必ずたすけてやろうとある大悲にむかう一念が、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」こころなり。(一蓮院秀存)阿弥陀さまの…

宝の山

しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて…

楽すぎて

私のままが南無阿弥陀仏。煩悩のままが南無阿弥陀仏。そのまま極楽参りとは勿体無い。

報謝の念仏

阿弥陀様にまかせてばかりでいいのかい、と思われた時は念仏称えています。

如来の救い

如来の救いとは、罪を許して帳消しにすることではありません。私たちに、自分の過ちを過ちと認めることのできる正しい智慧を与え、その罪の報いを引き受けることのできる勇気と力を与え、自分のことしか考えられなかった自己中心的な私たちの考え方を転換し…

念仏のはたらき

南無阿弥陀仏と称えることは、人間の欲望を満たすための祈りではありません。むしろ人間の我欲の醜さを知らせ、人を呪い、怨む心の浅ましさを気づかせて、我欲、私情のために、人間だけではなく如来までも利用しようとしていることの愚かしさに気づかせるの…

さわりなき救い

物心ついた頃から、みんなどうにもならない心を抱えて生きているんだなと感じていました。私もなんとなく不安を抱えて生きていました。 そんな私のために、すでに阿弥陀さまはすべての人をさわりなく救う南無阿弥陀仏を完成されていました。浄土真宗の教えに…

私の心 

南無阿弥陀仏のはたらきはいつも変わらないのに、私の心はいつも変わり通し。 私の心はあてにならないものだと知らされます。(kosizu)

法と私

頂いた南無阿弥陀仏の功徳は限りがありませんが、頂いた私の出来はピクリとも変わりません。 法は仰ぐものだと知らされます。

平生業成 

平生業成とは、いつでも今、救われる法が完成しているということをあらわします。 南無阿弥陀仏に勝る法なしです。(kosizu)

間違いない

助ける南無阿弥陀仏に間違いないから間違いなく助かるのだと聞かせて頂きました。 南無阿弥陀仏

ム−ンライト 

阿弥陀仏の光明のはたらきは、月の光のようにやわらかくてやさしい感じがします。(kosizu)

変わることと変わらないこと

そのまま助けるという本願なので、私は何も変わりません。 ただ往生一定と変わります。阿弥陀様のなされることです。

ほったらかし

全くまるもらいの信心、囲み寄せる手間もさらさらなく、ほったらかし状態。

主語

私が、となると何のたよりもあても見当たりません。 阿弥陀様が、となると何ともあたたかい感じがするのです。 本願力回向の信心は不思議です。

こんな者が

こんな者が救われることあるんだろうか、と思っていました。それが こんな者が救われるとはねえ、となっています。 こんな者のまま救うという本願でした。遠く宿縁をよろこぶ以外ありません。

歓迎会

新入社員の歓迎会がありました。人手不足もあって文字通り(?)歓迎されていました。 こちらは往生まる投げしておきながら、ようこそ救われてくれたと歓迎くださる阿弥陀様のお慈悲に頭が下がります。

念仏 

仏のこころは 不思議なものよ めにはめえねど 話ができる 仏と話をするときは 称名念仏 これがはなしよ (浅原才市さん) 念仏を称えると、不思議と阿弥陀さまの慈悲の心が知らされ、心温まります。(kosizu)

聞いてみなんせ 

聞いてみなんせ まことの道を 無理なおしえじゃないわいな きのう聞くのも 今日またきくも ぜひに来いとの およびごえ (おかる同行)阿弥陀仏にただお任せするばかりです。(kosizu)

知識(先生)の恩

以前、阿弥陀仏に向かったつもりが実は向かっていないことがありました。 ちょうど先生は私の後ろに立って、向きを阿弥陀仏に向けて下さる感じでした。 阿弥陀仏と私の間に立つのでなく、後ろです。

忙しくても

仕事は忙しさを増すばかり。 念仏は行じ易いのでありがたい。