賜る信心

 信心をもらうとか、得ようとかいうところに、一つのとらわれがあるのです。もらうとか、得ようとか、つかもうとすると、逆につかめなくなるのです。こういうのは、不思議なもので、そのつかもうとする手がなくなって、あるいはつかみようのないのだと気がついたときに、すでに届いていたことに気がつくのです。〜だから真宗の立場というのは、そういう意味では非常に難しいのです。どうして難しいかというと、こっちに計らいがあるから難しいのです。とらわれがあるから難しいわけです。
 とらわれとか計らいを離れるというのは、あるがままということです。そのままの世界なのです。〜信心というのは、如来の大悲心なのです。こちらから手に入れようとか、握ろうとかする心ではないのです。握ろうとする思いが抜けたときに、逆に賜るわけです。〜〜御文に学ぶより

 阿弥陀さまの「そのまま救う」という仰せを、ただ受け入れるばかりです。 (kosizu)