賜る信心

 信心をもらうとか、得ようとかいうところに、一つのとらわれがあるのです。もらうとか、得ようとか、つかもうとすると、逆につかめなくなるのです。こういうのは、不思議なもので、そのつかもうとする手がなくなって、あるいはつかみようのないのだと気がついたときに、すでに届いていたことに気がつくのです。〜だから真宗の立場というのは、そういう意味では非常に難しいのです。どうして難しいかというと、こっちに計らいがあるから難しいのです。とらわれがあるから難しいわけです。
 とらわれとか計らいを離れるというのは、あるがままということです。そのままの世界なのです。〜信心というのは、如来の大悲心なのです。こちらから手に入れようとか、握ろうとかする心ではないのです。握ろうとする思いが抜けたときに、逆に賜るわけです。〜〜御文に学ぶより

 阿弥陀さまの「そのまま救う」という仰せを、ただ受け入れるばかりです。 (kosizu)

さびない

残業続きも疲れますが、休み過ぎても体が重い感じで困ってしまいます。
だいたいのことはほどほどがよいのかもしれません。
いずれにしても念仏おおく称えられる日々を送っていきたいものです。

分かる

あれこれはからって他力信心が分かるのではありません。
勉強したら分かるというような普通の理屈とは合わないものです。
そこのところをよくよく聞かせて頂くのが大切なのだと思われます。

早いに越したことはない

今助けると呼んでおられる阿弥陀仏ですから、そのまま救われます。
本願力回向の信心に、私のはからいが入り込む余地は始めからありません。
真剣に聞けば救われるというのであれば50年聞いても覚束ないように思えるのです。